うつぶき ~うつを克服し、その経験を力に変える~

うつ病・不安障害で療養中の私が、発症して感じたうつ病に対する考えや、うつ病を乗り越えるために自分が今実践している事、たまにはただのプライベート日記など、同じ病気と戦う方々と共に乗り越えていくための記事を綴っていきます。

うつぶきの残念な経歴紹介 ~うつを患ってから今に至るまで~

はじめまして、「うつぶき」です。

 

記事を綴っていく前にまずは自分がうつになってからの経歴を紹介します。

 

 

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※今回は非常に長いです。

経験で得た、自分の結論だけ読みたい方は最後の「■※結論※クビになってから療養する生活になってまで」へ飛んでください。

ですが、最後まで読んでいただき、皆様の生活と比べていただければ幸いです。

 

まずは軽くプロフィールを、、

■出身・現住所 北海道の真ん中

■性別 男

■年齢 37(2019年3月1日現在)

■学歴 小樽商科大学社会情報学科卒業(浪人、留年なし)

■仕事 現在は無職(療養中のため、傷病手当金で生活)

■家族 嫁と二人暮らし

■病名 うつ病・不安障害

 (勝手な推測だがおそらく適応障害も患ってると思います)

■趣味 麻雀・ポーカー・ダーツ・レトロゲーム・読書

 

プロフを見る限りこれから子供を授かって、家族を形成していく前触れのような現在なんですが、私自身真面目すぎる性格が災いし、なかなか定職には就けず、5回転職しています。そのうちここ2年で3度転職し、直近の会社では試用期間満了で終了、いわゆるクビを宣告されて今に至ります。

 

それでは詳しい経歴を紹介しますね。

大学時代まではそれほど苦い思い出はないのでいきなり社会人まですっ飛ばしますw

 

 

■小樽の大学卒業後、ブラックのIT会社に就職

 

 

自分が大学を卒業する2004年は就職氷河期の真っ只中で、何十社へエントリーシートを送っては落とされるような時代でした。その中、自分は特にあまり条件にこだわらず、当時好きだったパソコンに関係する仕事さえ出来ればいいやと思い、札幌のとあるソフトウェア会社へ就職します。

 

しかし、その会社は非常に前評判が悪く、当時ITバブルの真っ只中だったのにも関わらず、サービス残業100時間、札幌での仕事が少ないので、年の大半は東京へ出向して社員寮暮らしは当たり前の生活でした。

 

自分も入社して1ヵ月後、東京へ出向し、サービス残業100時間の洗礼を受けます。

納期前にもなれば、1ヶ月間休みなしで朝9時から終電24時まで仕事ということもざらでした。大学当時の友人や当時の彼女も同じようなIT企業に就職してましたが、忙しいとはいえ、残業手当と手厚いボーナスはもらってたようで、毎月自分の給与明細の金額をみて愕然としながら、約1年働いてました。

 

また、1年目でまだ若いとはいえ、毎日24時帰りの洗礼は自分にとって酷であり、おそらくこのころからうつ病の傾向が見え隠れしていたと思います。実際1日パソコンを見つめたまま手が動かない日もありました。

 

それでもまだこのころは、残業手当なしでこの給料は納得できないと、給与面の不満から転職活動を始め、同じIT企業ではありますが今度は給与面での待遇の良い会社へ転職します。

 

 

■転職後、すぐに不調が再発、部長のススメで心療内科にかかり、うつ病であると診断!

 

 

転職したIT企業も面接の内容とは裏腹に残業時間は多く、また、配属になったプロジェクトの主任が非常に評判の悪い人であったために、上司と意思疎通が出来ない状況に。また、同じ悩みでどんどんプロジェクトの仲間が減っていくことから、自分と主任だけの非常に険悪な状況になりました。

 

結局主任から仕事も振られず一人何も出来ない状況が続き、欠勤も増えてきたので、部長に相談したところ、心療内科の受診を勧められます。

 

そこで、初めてうつ病であると診断され、3週間の休職をすることになりました。

 

その時は険悪な職場に行く必要がなくなったと内心うれしい気持ちがいっぱいで、処方された薬は飲んでいましたが、それほど、療養している気分ではなかったと思います。

 

この甘い考えが、その後のうつ病との長い付き合いの始まりとなるのです。

 

 

■復職後、新たな部署へ配置転換、しかし、症状は一向に変わらず、また休職へ

 

 

復職して新たに頑張ろうと奮起したのですが、待ってたのは厳しい残業続きの毎日でした。今になって思うことは、まずプログラマーが向いてなかったということと、やはり長い時間パソコンに向かって仕事すること自体自分には向いてなかったのかなということです。すぐに体調を崩し、たった1ヶ月で2度目の休職をすることになります。この時は1ヵ月半の長い期間休職し、無理の無い程度に趣味に明け暮れました。

 

復職後はわりと勤務時間と業務内容を考慮してもらえ、多少欠勤はありましたが、しばらくの間、休職することなく仕事が出来ました。しかし、5年ほどたった頃からまた休職と復職を繰り返す日々となります。

 

このころを振り返ると基本的な原因は上司との人間関係だったと思います。確かに、休職に追い込まれるときの上司は評判の悪い人ばかりではあったものの、その根本原因は自分の曲げられない性格とITの仕事に対する耐性の低さが原因だったと思います。

 

 

■ついに親が介入し、地元に連れ戻されることに

 

 

自分の体調の悪さを見かねた父親から、地元で仕事を探せと命令じみた提案をされます。

 

説明が遅くなりましたが、実は親、特に父親との関係は悪いです。父の仕事が大工の棟梁だったために、「何よりも大事なものは金、働かざるもの食うべからず」という家族よりも金を優先する自分にとっては反面教師だった親です。しかも家族に対しても俺の言うことは絶対といった亭主関白だったために、余計溝は深まりました。大学へ進学しようとした理由も「親元を離れたかった」これ以外なかったです。

 

ちょっと脱線しましたが、札幌で不安定な体調でだらだら今の仕事を続けるのも辛いと思ったのか、10年間働いた会社を退職して、地元の障がい者施設へ転職します。

 

 

■地元へ帰り、以前と全く違う仕事へ転職。順風満帆であったかと思いきやまた、炎上している本部へ移動し、以前と変わらない状態へ

 

 

地元に戻り、久々の実家暮らし、さらには障がい者の支援員を農業をやりながらするという体力勝負の仕事に変わります。

 

農業の経験は無く、上司に怒られっぱなしでしたが、障がい者とはいえ、人とコミュニケーションを取ったり、外の日差しの中で体を動かすということは自分にとっても非常に健康的だったと思います。特に夏場は暑いビニールハウス内での作業が多かったので、体重は10キロほど痩せました。

個人的に痩せたいなら農業はお勧めですw

さらには、その施設で働いてた事務員の女性とお付き合いすることができ、翌々年結婚しました。

 

しかし、支援員について8ヶ月経ったころです。本部の理事長から直に電話が掛かり、本部の事務員に異動を命じられます。

 

まあ事務員の経験は無いにしろ、多少パソコンも使えるし少しは以前の職業が役に立つかなと思い、また、理事長からの直にお願いされたこともあって了承し、本部の事務員へ異動となりました。しかし、この選択がまたうつ病再発、そして、負の転職スパイラルへ陥るのです。

 

 

■事務員は何でも屋、使えない事務局長と頭でっかち事務員、何でも人頼みににする職員に翻弄する毎日。ついにタガが外れ、地元の心療内科へ受診

 

 

本部へ異動後、最初に目に付いた光景は自分と数ヶ月しか入職日が変わらない使えない3人の中年男でした。

 

一人は事務局長、京都弁で業務をいかにも分かったフリをして、人になすりつけ、失敗すると人のせいにする典型的ダメ上司(その後別の施設へ左遷となる)

一人は、すっとぼけた会計担当。一応会計事務は達者だったので何とか仕事はできていたが、何せ仕事は適当でよく局長に怒られてた(その後別の施設での会計担当として異動する)

最後の一人が退職予定の事務員。この男が最悪で仕事できる的な風貌を見せて実はすべて何も整理できてないまま、残った事務員で尻拭いするハメに遭う。

 

当時を思い出すと今でも頭が痛くなるくらい最悪な状況だった。この三人の入職が原因で本部が壊滅的な状況に陥っていたのだ。自分はその尻拭いとして異動させられたということになる。説明が遅くなったが、当初は事務員希望だったため、本部への異動を抜擢されました。

 

何とか退職した事務員の引継ぎは完了し、さらにはすっとぼけた会計担当は異動、その代わりその施設にいた暦の長い会計担当は本部に異動し、新しい体制での業務が始まります。

 

その後は、事務局長と職員のすったもんだが多発し、退職する職員がちらほら現れ始め、また、仕事量も元々多い職場だったため、あふれた仕事を擦り付け合う状況でした(今思えばこれもブラック企業あるあるなのだが)。

 

結局あふれた仕事は自分が受け止める流れになり、残業手当も出ないのに夜遅くまで残って残務を片付ける日々になる。本来7時くらいには帰るような職場で自分は毎日職員が全員帰った後、10時ごろまで残ることがざらとなります。

 

あるとき、ついに自分のストレスも爆発し、事務局長と言い争いに勃発します。これ以降、事務局長とは非常に険悪になり、自分も相談する相手を失い、仕事を抱え込む事になります。さらには、この頃から結婚式の準備も重なり、自分が覚悟していた以上の負荷を背負ってしまいます。

 

ついには体調も悪くなり、これから結婚式を控えているという状況でうつ状態が再発します。結婚式準備も親が介入し、あらゆる壁を乗り越えた中、やり遂げたときは自分も本当にうれしかったですし、これから嫁と二人三脚で頑張るんだという実感が湧いたと共に、結婚式という重い荷が下りて余計に脱力感を感じることになります。今思えば、自分が相当背伸びした結婚式だったと反省しています。

 

そして、次の年、事務局長の左遷など良いニュースはあったものの、うつ状態が抜けず、仕事量をセーブするのですが、6月に職場環境に耐えかねた私は、友人の紹介もあって、小さい卸売業者へ事務員として転職しました。

 

 

■転職先はさらにブラック企業、すぐに体調を崩し退職、2ヶ月の転職活動の末、初の契約社員

 

 

掲題の通り、転職した先は更なるブラック企業でした。

俗にいう一族経営の子会社で毎日が社長の罵倒の会社でした。社員も10名しかいないはずなのに年間20名が退職するという前代未聞の会社で、それだけ社長に対する信頼が無い会社である事を証明するのかなと思います。

 

これは自分の身がもたないと思い、2ヶ月で退職し、転職活動の末、コールセンターでオペレータの仕事に着きます。

 

コールセンターの仕事自体がストレスになりやすい業種ではありますが、内容がコンピュータのトラブル関係のオペレータだったため、電話応対に慣れてからは特にストレスとなることはありませんでした。ただ、契約社員ですから、待遇や契約終了に対する不安は拭えず、より条件の良い会社への転職を考え始めます。

 

 

■ふと発見したプログラマー募集の案内。飛びついた結果、うつ病へ逆戻り

 

 

ある日、フリーペーパーの募集記事を眺めていると、プログラマー募集の案内を発見しました。会社は北海道では有名なガソリンスタンドを経営する某会社なんですが、給与も待遇も良く、正社員での募集だったので、だめもとで面接を受けてみました。

 

するとあっさり内定が決まりました。(このとき、なぜすぐに決まったのか疑うべきだったと思います。)

 

久しぶりにプログラマとして仕事も出来るという期待と不安を抱きながら、働いてたコールセンターへ退職願を提出したのでした。これだけ転職を続けていると退職の準備も慣れてくるものです。

 

いざ入社すると、社内は暗い空気が流れてます。空気もあまり声を掛けるなといったような空気、そして、鳴り止まない電話、この電話がまた自分を狂わせます。

 

一瞬コールセンター上がりなんだから電話応対くらいは大丈夫でしょとお思いかもしれませんが、電話応対はあくまで作業の一つに過ぎません、しかもその電話は、お客様からの注文の電話も含みます。道内をカバーしている会社なので、結構な頻度で電話がかかるのですが、当然クレームの電話も多いですし、別に持っている本来の作業もありますから誰も電話を取りたがらないのです。

 

そこでまた自分の悪いところが出てしまいました。

 

出てきた注文の電話をほとんど出るようになってしまったんです。当然ミスをして担当から叱責を受けることも多かったですし、クレーマーの対応も多かったです。うつ傾向の自分には、到底重い業務だったと思います。

その上、システムの保守をする作業もあり、上司の思いつきに付き合わされ無駄な作業が増えたり、上司間のいざこざ(こちらも一族企業です)に巻き込まれて作業が増えたりと、やはり抱え込んでしまうことが多くなってしまいました。

 

転職して3ヶ月経過した頃から症状が出始め、また心療内科にかかることになります。

 

ここで、また1ヵ月半の休職をすることになりました。

しかし、今度の休職は今までの休職と違い、親の目が気になります。

結婚してからは当然親元は離れたのですが、親の希望で実家の近くに住むことになりました。当然会社を休むことに対しては言語道断な考え方なので、親も結構家を通り過ぎたりして監視していたようす。休職とは言えども、家でゆっくり休むことがほとんど出来ない状態でした。

 

何とかごまかしごまかしでネットカフェに行ったり、自習室や図書館で時間を潰したりして、仕事に出ているフリをしていました。それでも、ちょっと帰る時間が早いと、どうしたんだと電話がかかってくる始末です。こんな状況じゃ気も休まらないです。

 

休職期間も過ぎたので、自動的に復職はしたものの、ついには自分を責めるようになり、自傷行為もたびたびするようになってしまったのです。

 

社屋の陰に隠れて自分を叩いたり、鉄筋に頭をぶつける行為を繰り返し、ついに上司に押さえつけられ、休養するよう帰宅を指示されます。

 

それからは1日も出勤せず、そのまま私は試用期間満了という名目で事実上会社をクビになりました。そして今回は初めて親に自分がクビになったことを打ち明けるのです。

 

確か、クビになったその日、祖父母の眠る墓地へ行き、祖父母に手を合わせてから、母親と落ち合います。そして今の自分の心境について正直に話をしました。そして、ついに父親も観念したのか、初めて自分が怠けているのではなくてうつ病という病気であると理解したみたいで、じっくり休めと言われました。そのとき、最後に言われたことは「自殺だけはやめてくれ」でした。

 

途中で書きませんでしたが、うつ病が発症してから自殺願望は常に頭の片隅にありました。大学卒業するまで、自殺なんて考えたこと無かったのに、、。自分に過剰な負荷を掛けると命すら危険にさらされる事を改めて思い知りました。

 

そしてクビになってから今日で丁度3ヶ月が経ちます。

 

 

 

■※結論※クビになってから療養する生活になって

 

 

まずは会社をクビになって本当に良かったと思っています。

そして、クビになったことを親に話ができて本当に良かったと思います。

最後に本気でうつに向き合おうと覚悟する決意が出来たと思います。

 

クビになってから2ヶ月ほどはだらだら過ごして仕事のことを忘れようと考えていました。

 

今は逆にこれからうつと付き合うために生活の改善をしているところです。

 

 

自分にどういった改善が必要なのか?考えた答えをこのブログに発信していこうかなと考えています。

 

以上、長々と綴っていきましたが、最後まで読んで頂いた方、本当にありがとうございます。

これから定期的に更新していきますので、是非よろしくお願いいたします!

 

おわり